今では暗渠となっている浜町川は、かつて大川(隅田川)に接し、物資輸送路などで賑わった堀割(人工的に水を通したところ)でした。
この浜町川跡が、現在の浜町緑道(グリーンベルト)です。
グリーンベルトの名に相応しく、様々な木々が植えられ、近隣の住民や会社員の憩いの場になっています。木々には植物園で見られるような銘板がかけられており興味を引きます。メモをとりながら歩いてみると30種類以上もありました。
今回の散歩は、浜町緑道を中心に歩いてみました。
あ行 | か行 | さ行 | た行 | は行 | ま行 | や行 |
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アオキ アジサイ オオシマサクラ アオギリ オオムラサキ エゴノキ イチョウ |
クヌギ カクレミノ クスノキ ケヤキ カンツバキ キンモクセイ |
サルスベリ サンゴジュ ソメイヨシノ シャリンバイ シダレザクラ |
ドウダンツツジ トチノキ |
ヒマラヤスギ ボックスウッド ポプラ ハナミズキ ハマヒサカキ |
マテバシイ モッコク メタセコイア |
ヤマブキ ヤマモモ ヤマモミジ |
日本橋七福神のひとつ。お稲荷さん=キツネのイメージも強いようですが、キツネは神さまのお使いをする霊獣で神さまとは異なります。中世に、人間の欲望を直接神さまに祈願するのは畏れ多いとして、特別に選ばれた動物を通して祈願したのが始まりです。。 中央区日本橋浜町2 |
交通の激しいこの交差点は、江戸時代に山伏の飲用に使用した井戸があり「山伏の井戸」とよばれていたといいます。現在正確な場所はわかっていませんが、明治15年に取り潰されました。 日本橋久松町9 |
賀茂真淵は元禄十年(1697)、遠江国敷智郡浜松庄に生まれ。江戸時代の国文学者、歌人で万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究しました。「国学の四大人(しろうし)」の一人とされる。実際の住居跡より、約100m南西、ファミリーレストランの壁面に表示板が出ています。 下記はこの家で詠まれた句です。 県居の茅生の露原かき分けて月見に来つる都人かも こほろぎの鳴くや県の我が宿に月かげ清しとふ人もがも 日本橋久松町9 |
久松幼稚園と久松公民館の間の道路は子どもの往来が多い為か、「中央区こどものあそび場」として遊歩道になっています。 久松児童公園と久松小学校校庭は地続きになっています。 日本橋久松町1 |
この橋は浜町川に架かっていました。 小川巡査はこの時の格闘で負った傷が原因で24才の若さで亡くなったと碑に標されています。 日本橋富沢町1 |
明治時代は、ドイツ医学を範として医事制度を確立し、漢方医学が冷遇され没落していった時代でした。この地で開業した医師・和田啓十郎は、衣服や食事にかかる費用を倹約し「医界之鉄椎(いかいのてっつい)」を自費出版、漢方医学の復興に大きな影響をもたらしました。 碑の前には小川のせせらぎがのどかな風情を醸し出しています。この水は湧き水という話しもありますが...。 浜町緑道内 |
「江戸時代、浜町は静かな武家屋敷、人形町は賑やかな商店街と歓楽街といった地域で、隅田川沿いの下町情緒の濃い所だった。 浜町緑道内 |
「今を遡ること350年前、現在の人形町あたりに茸屋町と堺町という街があった。当時この街では、江戸三座といわれていた芝居小屋のうちの、市村座と中村座の2座が歌舞伎を上演しており芝居街と呼ばれていた。また浄瑠璃による操り人形の芝居小屋も数件あり、歌舞伎と合わせて庶民の人気を集めていたという。 ここで使われた人形の製作と修理に当たった人形師達は、この周辺に住み人形細工と人形の販売を生業としていた。 浜町緑道内 |
浜町公園は肥後藩細川氏の庭園跡です。隅田川沿いに面しており昭和4年に区立公園として開放されました。隅田川の眺望をみながらバーベキューが楽しめる施設や、体育館・温水プールなど区内外の人々に人気です。 浜町公園にある、加藤清正を祀る清正公堂は、文久元年(1861)に熊本藩主細川斉護が、熊本市日蓮宗本妙寺から勧請し、一般の参拝も許されていました。清正公が熱心な法華信者だったこともあり、清正公信仰は日蓮宗と結びついて全国に広まり、江戸時代の後期から明治までが、特に盛んでした。 |